蜘蛛之巣城

Off*Beat(オフ★ビート-BOY・ミーツ・BOY-)

では予告通りOff*Beat(オフ★ビート-BOY・ミーツ・BOY-)の紹介。

作者のジェン・リー・クイック(Jennifer Lee Quick)は、クリスティ・ルジェスキーやエイミー・キム・ガンターと同じAmerimanga廃刊難民組マンガ家です。

本作はTOKYOPOPへの持込から出版に至った作品で、そのせいか、新人賞受賞作家よりないがしろにされているような気がしないでも…ムニャムニャ。


ま、とりあえず、あらすじ紹介。


サブプロットは色々ありますが、枝葉を払った本筋は、「ナードの初恋」。

まず、主人公の人物造形が見事。
主人公のクリストファー・ブレイク(通称トーリ)は、なまっ白い肌にソバカスだらけ、ボサボサ赤毛のひょろっとした15歳の少年(ソバカス+赤毛は「未成熟」「不器量」の記号)。得意科目が物理で体育が嫌い。

…これで眼鏡をかけてたら完璧です。完全無欠のナード君です。
最近変に持ち上げられているOTAKUじゃなくて、ネガティプな「おたく」。


このトーリ君は映像記憶能力の持ち主で、尚且つ記録魔。しかも全ての物事を分単位で把握しなければ気がすまない強迫観念にかられている。

現代っ子らしくパソコン少年であるにもかかわらず、大事な記録はアナログの日記帳にエンピツ書き。クロゼットには日記帳のギッシリ詰まった箱が幾つもしまわれている。

この日記(自分の感情については一切記載せず、様々な出来事を分単位で記録しているだけ)は、どうやら両親の離婚前後の精神的に不安定な時期から書き始めたらしい。

記憶力・観察力に優れている為学校の成績はトップで、教師等の大人受けはいいし、立ち回りは巧いので周囲と無駄な軋轢を起こすこともない。
しかし人情の機微に疎く、基本的に周りの人間は皆馬鹿に見えるので、友達らしい友達はいない。

しかも所々で倫理観が壊れてる。イリーガルな行為にスリルを感じているのなら、まだ若造らしくて可愛げがあるのですが、こいつは単に自分の興味を追求するに際して倫理のハードルが無効化してしまうだけ。

小賢しくて他人に対する思いやりに欠けるくせに、外面を取り繕うのは巧い。非常にイヤな子供です。このまま成長したらどんな大人になるのか、とても心配。


トーリの母親は「現代的な、都会のキャリアウーマン」なので、息子の内面に強引に踏み込むようなことはしないし、仕事も忙しいので息子の危なっかしい状態に気づけない。

「リベラルな友達母子」関係のつもりなので、息子にタンポンやら避妊用ピルやらを平気で買いにいかせるし、恋人がいることも隠さない。男の子には「異性に対するファンタジー」とか「母親という神話」は必要だと思うんだけどな…。


トーリにとって唯一友人らしき存在は、アパートの二階に住んでいる大学生のポールなんですが、こいつもやっぱりオタク。

唯一トーリの異常性に気付いている人間なんだけど、ちゃんとした大人じゃないので、トーリの奇行を知っても、止めない。止めないどころかハッキングまでしてトーリに協力する。


…で、こういう環境に生きている、こういうイビツな精神の持ち主のトーリ君の家の向かいに、一人の少年が越してくる。

その少年・コリンは東洋系の入ったエキゾチックな黒髪の美少年で、両親はなく後見人の男性と二人暮らし。
コリンは、魅入られたように彼を見つめるトーリを無表情に一瞥し、家に入る。


それだけ。一瞬視線が交差した、たったそれだけ。
コリンの方は次の瞬間にはトーリの存在なんか忘れてるだろう。


そんな「見初めの場」の後、トーリがどういう行動をとるかというと…
以後約一年間、コリンの行動を観察し、逐一日記に記録するのですよ。

向かいに住んでいるのに声をかける事すらしない。友達になるどころか、「知り合い」レベルにすらなろうとしない。一方的にストーキングするだけ。

トーリはポールに対して自分の行動の理由を「好奇心」「あいつが怪しいから」と説明している。
トーリは意識して嘘をついているのではないでしょう、単に自覚がないだけで(実際コリンと後見人の生活ぶりはかなり不審だし)。

そして自分の存在を隠してコリンの行動を観察することに飽き足らなくなったトーリは、母親を言いくるめてコリンの通う私立校(片道2時間かかる)に転校する。
母親には「公立校は危ないから」ウンヌンと言い、ポールに対しては「おふくろが転校させたがったから」と言う(今度は意識的な嘘)。

で、コリンに近付く為に色々策を弄して小芝居なんかもしたりするんだけど、取り付く島もない。
そこでトーリ君、どうするかと言うと、生活指導室に侵入してコリンの個人情報を盗み見します。あ~ぁ。


「見初めの場」から一年たっても、トーリは何故コリンの事がこれほどまでに気になるのか自分でも分からない。
アイツは他の奴と違うから、正体を突き止めなければ気が休まらない…とムキになる。


トーリ君、トーリ君。正体を突き止めなければならないのは、むしろキミの心に潜むモノの方だと思うよ…。

  • それまで身なりに構ったことなんてなかったのに、自分のくせっ毛が突然気になりだす。
  • ほんのちょっとコリンから愛想笑いを向けられただけで、パニックを起こす。
  • 二人っきりで帰宅するチャンスに恵まれたのに、何を話したらいいのかわからなくて間が持たずに気まずい思いをする。
  • 電話番号を教えてもらっただけで、周囲が目に入らないくらい舞い上がる。
  • 初めて電話をかける時、頭の中で何度も何度もシミュレーションをして、なのにいざ相手が出たら頭の中が真っ白になってしまう。
  • 手のひらを重ねただけでドキドキドキドキドキドキする。

トーリ君、キミね、傍から見たら唯の初めての恋に浮き足立つ他愛ないティーンエイジャーだから!
ものっっっすごく判りやすい恋わずらいだから!
相手が男の子だっていうのを除けば、一山いくらのありふれた青春の一コマだから!


…それだというのに、トーリ君はいつまでたっても自分の恋愛感情に気付かない。

自分がゲイだという事実に直面したくないってのもあるでしょうが、この子の場合はそれ以前の問題。頭でっかちのエゴイストだから、自分が恋をしているなんて理解できない、認められない。

誰かに恋するというのは、相手の魅力の前に屈服する事だから。
誰かを求めることで、自分の欠落に嫌でも気付かされるから。


自分の心をかき乱す存在に対して、自分の姿を隠したまま相手の情報を集めることで相手を「掌握」しようとするような奴に、決死の覚悟で相手に自分自身を差し出して、尚且つ一瞥もされず打ち捨てられる…そんな博打を打つ根性がある訳ない。


コリンはエキゾチックで美しく、大きな秘密を抱え、そして愛に恵まれず孤独でありながら、その孤独を意に介さない風に見える。どこか「非日常」を纏ったような佇まいの少年です。

トーリにとっては、白馬の王子でもあり、囚われの姫君でもあり、異界より誘惑する魔物でもありえる…。

日常の出来事は無味乾燥な「事実」でしかなく、「ドラマ」とはモニターの中のファンタジーだと思っているトーリのような少年が惹かれるとしたら、やはりコリンのような子だろうな、と納得できる。

もう、二人の出会いは「出会い頭の事故」としか言いようがない。


他人を愛してしまえば負け。他人に愛されてしまうのは身の不運。

…というような名言を橋本治がどっかで書いておりましたが、これはまさしくそんなお話。


トーリは物語の始まった一ページ目からずっと、周囲にも自分自身にも嘘をつき続けている。
そんな状態がストレスにならない訳がない。
案の定、母親やポール、クラスメイトとの関係がどんどんおかしくなっていく。

母親との関係の修復を図ろうとするトーリが、日記に「愛してるとか良くやってるとか言って母さんを安心させる」と書いて「問題解決の方法を検討」するのが、また何ともはや。

あくまでも、どのように「振舞う」べきか「頭だけで考えた」言葉で、心から出た言葉や行動じゃない。
この子にとっての愛情表現や対人関係がどういうものか端的にわかるシーンです。


一方でコリンも彼の抱えた秘密故に、トーリに対して親しげに「振舞う」ようになる。
トーリは何かがおかしいと思いながらも、コリンに笑顔を向けられると、もうまともな判断ができない(お馬鹿な子…)。

トーリ君、トーリ君。キミとコリンの間にあるのは、嘘と秘密と孤独だけでしょうに。それでコリンと信頼や愛情を育んでいけると本気で思ってたの?

そして当然といえば当然なことに、嘘を基盤にした二人の関係が破綻を迎えたところで、第二巻END。完結編となる第三巻ではどういう展開になることやら。

「君の正体が何者であろうとかまわない。初めて君を見たときから、ずっとずっと君が好き」

この魔法の呪文を口に出来ない限り、トーリが自分で自分にかけた呪いから逃れることは出来ないと思うんですけどねぇ。


エキセントリックな主人公が片思いの相手に異常に執着して痛い行動を繰り返すお話。…のはずなのですが、語り口が淡々としていて、過剰なスキャンダリズムを感じさせない作風です。

キャラクターと作者の間にやや距離があって、その空間にノスタルジアの風が吹いているような。客観的に見たら、とてつもなく嫌な主人公なのに、不思議と不快感はなく、その無様な姿に共感と淡い哀しみを感じる。

米アマゾンのカスタマーレビューでも、「人物造形がbelievableだ(等身大とか、リアリティがあるとかいうニュアンス)」という表現で褒めている人が多いです。

人が思春期に直面する普遍的な感情の揺れと、現代アメリカの少年が抱え込む病とを、演説調ではなくデリケートな心理描写で丁重に浮かび上がらせているあたりがbelievableで、とても「少女マンガ」的。

登場人物の発する言葉(対外的な態度)とモノローグ(自己認識)と、演出から読み取れる深層心理との間のズレが生み出す緊張感、直言しないことによる曖昧さ、余情が「日本的な少女マンガ」なんですよ。


例えば同じTOKYOPOPのリヴカー作『ガール×ガール 私をさがして…』なんかは、絵柄こそジャパニーズ少女マンガを模してはいるけれど、登場人物の行動と心理を一から十まで作者が説明してくれているお陰で「誤読」の発生する可能性は一ミリもない。作者の言わんとする事はウザイくらい良く分かる。その代わり、読者の「解釈の余地」も一ミリもない。

この徹底的に曖昧さを廃した語り口は、非常にアメリカ的。
あんましカテゴライズに拘泥するのもどうかと思うが、これって少女マンガというより、「アメリカン・ヤングアダルト向けグラフィックノベル」だよなーと思った(「だから悪い」とは言わないが)。


TOKYOPOPのOELの邦題は、揃いも揃って劇場未公開映画のビデオタイトル並みに酷いものばかりですが、本作に限っては許せる範囲。

BOY・ミーツ・BOY。

ただそれだけのことで、現代アメリカのありふれた日常生活が「神話」になり、ナード君のヘナチョコな初恋が放逐された英雄のイニシエーションの寓話となるのだ。物語の力とはそういうものなのだ。