翻訳道楽

ラファエル・サバチニの「The Lost King ~失われし王 ルイ=シャルル」第一部(2)

2017年5月21日より、note及びPuboo アカウント上で ラファエル・サバチニの未訳作品『The Lost King 失われし王 ルイ=シャルル』を連載中(週一回日曜更新)なのですが、 両サービスの仕様上、記事内リンクが使えない為に註釈が非常に見辛い事になっています。
後日kindleにてルビ付き、縦書き、註へのジャンプ可能なバージョンを出すつもりでいますが、とりあえず自分のサイトに最初の三話のみルビ&註へのリンク付きバージョンを上げておきます。
原文はパブリックドメインですが翻訳著作権は私が所有しますので、無断転載は不可です。

Chapter II. 男爵ジャン・ド・バッツ

 十月同日の夜、アルマンチュー男爵ジャン・ド・バッツは、ショワズール公爵邸オテル・ド・ショアズール 註1の裏、メナール通り某所にある豪奢だが落ち着いた部屋に座り書きものに勤しんでいた。彼はカーテンを引いて蝋燭の明かりで作業しており、部屋には暖炉で赤々と火が燃え盛り、丸太に混じった松かさの発する芳香が漂っていた。

 この驚嘆すべき人物、当時のヨーロッパにおいて王党派を利する為に最も果敢な活動をしていた男は、秘密工作員としては類を見ない豪胆を備えていた。彼はまるで、危険に備えた用心というものを潔しとしていないかのように見えた。己の正体をベールに包む手間などめったにかけず、彼は必要とあらば何時であろうと身をさらした状態で何処にでもおもむき、涼しい顔をして焼けた石炭の上を裸足で歩く者のように危険な土地に踏み込んだ。

 己の身が罠網で包まれた時、余人ならば半狂乱になるか無駄に足掻き苦しむであろう処を、ド・バッツは黄金のはさみで静かに網を切ってするりと通過するのである。これほどまでに賄賂を駆使する手口に長けた者は他におらず、その手口を用いて権力を腐敗させる事を、これほどまでに大規模に行う者も他にいなかった。潤沢な黄金とは別に、彼には自在に供給可能な共和国紙幣が無尽蔵にあったが、それはシャラントンで秘密裏に稼動している自前の印刷機で刷られたものであった。この偽札は、彼に無制限の資金力を与えただけではない。紙幣価値の恐ろしいまでの暴落を加速する事により王党派の目的に貢献したのである。

 彼のエージェントは到る処にいた。公安委員会の全議事録は彼と内通しているセナールという秘書によって即座に漏らされていた。そして革命裁判所を唯一の例外として、賄賂によって彼の便宜を図っている役人がいない政府の部署は存在しなかった。にもかかわらず、ルイ十六世の命を救わんとした試み、そして王妃と御子たちをタンプル塔から脱出させようとした後の試みが成功裏に終わらなかったのは、彼には予測不能の障害をもたらした運命の悪意によるものだった。彼がこれら一連の、そして共和国政府に対する死刑相当の様々な重犯罪の首魁である事は知られていたにもかかわらず、ほとんど捜索もされず自由に活動を続けられたという事実、それは己の身を守る為に彼が駆使した財の力を示す充分な証明であろう。

 彼の風采はといえば、中背で姿勢の良い凛然たる美丈夫であり、鼻と顎は押しが強く目は生気に満ちていた。今、彼はコートとベストを脱いで、フリル付きのシャツと黒いサテンのぴったりした膝丈キュロットという姿で座っており、その艶やかな黒い髪は過激な共和主義サンキュロティズムがはびこる以前と変わらず下げ髪を垂らすスタイルに整えられていた。

 時折、棚の上に置かれた鍍金オルモル時計に目をやりつつ、彼は書きものを続けていたが、それも予期していた物音に遮られるまでだった。年配の使用人ティッソが市民シトワイヤンラサールを案内してやって来たのであった。

 ド・バッツは椅子に座ったまま半身をひねると訪問者に向き合った。

「遅かったな、フロランス」

 ラサールはその強健な痩身にきっちりと着込んでいた暗緑色の乗馬コートのボタンを外した。彼は円錐コニカル帽を脱ぐと、長く伸ばした犬の垂れ耳アン・オレイユ・ド・シアンスタイルの艶やかな黒髪を振り出した。

「随分と長い事件で、最後まで見届ける事はできませんでした。ダヴィッドは待ってはいられなかったんです。今晩の議会は反革命容疑者法註2についての議論なので、我らがリュクルゴス註3は自分の席に着いている必要がありましたから。マダム・エリザベートが奴らの汚い手で取調べを受ける直前に、俺はダヴィッドと一緒にあの場を離れなければなりませんでした。なにせ、彼の引き立てのお陰で随行者としてタンプル塔に潜り込めただけの立場なので」

 彼には物憂げにゆっくりと話す癖があったが、それは極めて冷静な話し振りの中にも冷笑しつつ半ば揶揄するような調子をもたらす、間延びした発音を伴っていた。それは彼の無遠慮で図太そうな青白い顔や辛辣さを強調するに過ぎない、笑みの形に鋳込まれた力強い口元には良く調和するものであった。

「何があった?」ド・バッツが尋ねた。

「思い付く限り最低な、底の底というのを想像してみてください、それでもあの紳士方の反吐が出るような作り話までは届かないはずですよ」彼は胸がむかつく思いで、タンプル塔で目撃した事を詳細に説明した。「あの少年は自分が何を話しているのか理解していなかった。あれは丸暗記するように仕込まれた話で、あの子の判断力は鈍らされていたんです。尊大で我が強く、言う事だけは威勢のいい大人の男の猿真似。あの悪党どもは、あの少年が用済みになる前に精神を完全に腐らせてしまうつもりですよ。それから、あの少女。連中が汚い手で穢れない純真のベールを引き裂いた時、あの娘は持って生まれた性質を根こそぎ変えられるような衝撃を経験したはずです。激しく苦悶しながら、彼女はあの不幸な少年に対して怒りをぶつけていた。本当に、酷い光景でした。子供たちがあんな風に利用されるのを見せられるとはね!」彼はポケットから画帳を取り出した。「多分、この時の強い感情が、いつもダヴィッドが俺には欠けていると言う天啓をくれたんだと思います」彼はド・バッツの前に開いた画帳を差し出した。「いかがです?」

 しかし深い思いに沈んだ男爵は、ラサールの絵に目を向けなかった。

「この不快な手口はエベールだな。奴は確実に王妃を断頭台ギヨティーヌ送りにする必要に迫られているのだ」

「殺すだけじゃ足りないんですか?寄ってたかってあの女性に泥を塗りたくる必要が何処にあるんです?神は眠っているんですか?」

「神?神に何の関係があるというのだ?」男爵の抑制された声には悲壮な嘲りが含まれていた。「これまで神に向けられた最も悪質な侮辱は、神が人間を己に似せて創ったという主張だ。人間!悪意に満ち、貪欲で、偽善的なる人間、悪の攻撃に対してはあらゆる点で隙だらけの存在だ。さあ真実を直視したまえ、フロランス、君がまだ若いうちにね。そうすれば君は多くの過ちを犯さずに済むはずだ。人間の本性は善ではないのだよ」

 彼の視線はようやくスケッチの上に落ち、たちまち其処に釘付けになった。彼は首を振った。「悲劇的な絵だ。哀れな御子よ!」

 ラサールは己の画業を披露する誇らしさのあまり、その悲劇を意識の外に置いていた。彼は絵画の持つ力に関するダヴィッドの称賛を引用し、雄弁な描線を指摘して、それに比べれば元になった現実の苦しみなど取るに足りぬものであるかのように語った。熱弁は無駄に終わった。何故ならばド・バッツにとって重要なものは肖像画から伝わる含意であって、それを伝えた手段ではないからだ。

 その痛ましい絵に描かれている、陰険な目付きの影に見え隠れする少年らしく愛らしい顔が彼を強烈に揺さぶった。

 彼は突然、熱情の突風がほとばしるように語りだした。

「神、我を助けたまう。如何なる犠牲を払おうと、例え我が手でタンプル塔の壁を崩さねばならぬとも、私は必ずあの御子を救い出す。フロランス、これは君の助力にかかっている」

 ラサールの目は丸くなった。彼の唇は怪しむような形になった。「それは難しいでしょう」

「そして危険だ。往々にして、成すべき価値のある事はそのどちらかであるか、あるいはその両方かだ。だが困難や危険は少ないに越した事はない。君を当てにしても良いだろうか?君は問題の場所を知っている。先刻まで其処にいたのだからな」

 ラサールは豪胆な性分であったが、しかし無謀ではなかった。彼は冷静で論理的、そして感傷とは無縁の男だった。男爵の密偵頭の一人として、既に彼は大胆かつ熟練した仕事振りを見せていた。それを実行可能にする為に、急進的共和主義者ダヴィッドの生徒兼助手である彼は、これみよがしに進歩的かつ活発な革命家として振舞ってきた。彼はジャコバン・クラブとコルドリエ・クラブに加わり、コミューン議会の選挙に当選し自分の地区セクシオンの代表として議席を得てもいた。これにより彼は情報源を直に観察していたのである。そのようにして情報を探り、何らかの国家的重要性を帯びる可能性のあるスケッチをする為という口実を用いてタンプル塔に同行させるようにダヴィッドを説得する事もできたのであった。

 しかしながら先ほどの申し出は、絶望的に危険であるのみならず、破滅が運命付けられているように思えた。彼はためらい、眉を寄せた。

「成功の可能性がゼロでないのなら、協力するのにやぶさかではないのですが」

「よろしい。この問題を可能にする話をしようじゃないか」

 彼らは更に夕餉の席でそれを論じた。ド・バッツと共に食事をする為に、つまりは急騰している食料品の法外な代金を支払う余裕がある者の物惜しみしない食卓を目当てにラサールは留まったのである。革命家や観念論者イデオローグや利己主義者に富の公平な分配という約束で騙された不運な民衆が得たもの、それは窮乏と飢餓だった。無論、貧困者の為には給付金が用意されていた。国家の腐敗にはつきものの制度である。それは地区の会合に出席すれば得られる事になっていた。だがそれは一週間に、たった40スーにしかならないのだ。パンが1ポンドにつき30フラン、そして専制政治の時代には8スーだったひと瓶のワインは今や20フラン以下では買えないというのに、40スーが何の足しになるというのか?パレ・ロワイヤルのレストランは繁盛していた。劇場と賭博場には常連客が通っていた。革命の恩恵を受けた者達は裕福になり、たらふく飲み食いしていた。だが専制君主の支配という溝から救い出されたはずの民衆は専制君主が玉座にいた時代には想像もしなかった悲惨の深淵にはまり込み、彼らがその軽信性によって己の目隠しの結び目を固くし続ける限り、この国の状態は変わりなく続くだろう。

 それについてド・バッツは以下のような表現を用いて示唆した。「私の計画が成就せぬかぎり、自分が食いものにされている事にすら気付かぬあの愚か者達は、偽善的な標語を頭に詰め込まれ、空っぽの胃袋を抱えて、正気に立ち返る事もかなわぬままだろうな」

「それで思い出しましたが」ラサールは言った。「明日の夕食代を持ってないんです」

「君が私を訪問する時は常にそうだろう」

「おっと、貴方を訪問する時だけの事じゃありませんよ。ほとんど素寒貧すかんぴんなんです。ブーツには穴が開いたままだし、他にも…」

 男爵は彼の言葉を遮った。「君には一週間前に千フランを渡したはずだが」

「千フランぽっちが何になるんです?アシニャ註4の価値がどんどん落ち続けてるのはご存知でしょう?このご時世じゃ千フランは金貨一枚の価値もないんですよ。それに」と彼は物憂げに言った。「貴方の刷った紙屑が流通の中に入り込めば革命政府の財政破綻が進むんだから、これは貴方にとっちゃ喜ぶべき状況でしょ?」

「君は常にもっともらしい科白を吐く。しかし私は金の事だけを考えている訳ではない」厳格に、刺すような彼の視線が当惑の滲むラサールの顔に向けられた。「時折判断に迷うのだが、君は大義の為に働いているのかね?それとも私から受けとる金の為に働いているのかね?」

 ラサールは微笑まずにいられなかった。「愚問ですね!俺はその両方の為に働いてるんです。はっきりさせておきましょう。貴方の金なしじゃ俺は生きていけませんよ、なにせ革命に身ぐるみ剥がされましたんでね。俺が相続するはずだった地所だって、奴らが伯父の首をはねた時に没収されました。俺が金で動く人間だと判断するなら、どうぞご自由に。それだって、俺を信用する根拠としては充分なはずですよ。俺は王党派の為に働かなきゃならない。何故なら、俺が自分の土地を取り戻せるかもしれない唯一の希望は君主制の回復にかかっているからだ。それが上手くいかなかったら、画家になるしかない。俺は芸術家になるには深い洞察力が欠けているとダヴィッドには言われてますがね。無秩序社会に画家の生きる場所はありません、ジャック=ルイ・ダヴィッドみたいに野外式典の総合演出を仕切るような能力があれば別ですが。いかがです、俺の現在と未来、両方とも同じものを頼みにしているのは明白でしょう。この点に関しては疑う必要はないはずですよ、俺の道徳的な美点は信じるに足らないとしてもね」

「なるほど、君は率直だ。そして無情だ。その若さにしては不思議なくらいに無情だ」

「速く歳をとるんですよ、この腐敗の温床に住む人間はね。そして無情になるんです。しまいにぺてん師エスクローになって金をせびるのを恥とも思わなくなる、俺みたいにね。ブーツに大穴が空いてる時に自尊心が何の役に立つっていうんです、ジャン?」

 そのブーツを直す為に、男爵はその夜、彼に偽造紙幣の束ではなくひと握りの本物の金貨を与えた。男爵はそれについて皮肉っぽくも率直だった。

「君は今や、軽々に危険にさらすには貴重過ぎる身になってしまったのだ、フロランス君。偽造したアシニャを所持するのは危険だ、例え私の印刷機で刷った出来の良いものであってもな。タンプル塔から救い出さねばならぬ少年がいる。この任務は君が考えている以上に、君の為にあるような仕事だ。君も理解しているように、来るべき王制回復の時に備えて国王を護る事は、宮廷画家となる為の最も確実な道なのだから」

「シャルロットの籐籠註5の中に俺の頭が転がり落ちていなければね」ラサールは金貨をポケットに入れた。「どちらの道かはコインの裏表みたいなものですから。行動方針が決定したら、すぐに知らせてください」

 しかしながら――作戦展開の――決定に到達するまでにド・バッツは三ヶ月を要した。その間に不幸な王妃は元々の罪状に加えて実の息子が意図せずして告発者とされた複数の余罪で起訴され、詮議が始まる前から既に決定済みの有罪判決を受けて、革命広場プラス・デ・ラ・レヴォリュシオンに馬車で運ばれていった。そしてサントノレ通りに面した窓から見物していたダヴィッドは、名人技による簡素な線描を用いて、素早く、恐ろしい、冷酷な、今日こんにちの我々にも良く知られている、かの女性のスケッチ註6を作成したのであった。彼はルーブルの北分館にある自分のアトリエにそれを飾り、特にラサールに対してその妙技を手本として示した。

 ラサールはタンプル塔で描いた三つのスケッチを基にしたルイ十七世の肖像画に未だ取り組んでいた。ようやく描きあがったものは、クシャルスキ註7がおよそ十八ヶ月前に描いた肖像画に非常に良く似ていた。ダヴィッドはそれを単に出来の良い職人芸に過ぎないと決め付けて酷評したが、それはいささか厳し過ぎる評価であったかもしれない。その絵は非常に良くモデルとなった人物の特徴を捉えていたのだ。師匠を満足させる為にラサールは再びより大きなカンバスに描き直したが、それは前作にも増して型にはまりきった出来であった。
 
 ダヴィッドはラサールのスケッチの中に見出して彼のねじくれた心を大いに楽しませた、人を嘲るようなあの陰険な表情が失われているのを惜しんだ。しかしながらその肖像画は全面的に師匠の酷評を受けた訳でもなく、少年の顔にはあの瞬間の一瞥が描き込まれ、邪悪な攻撃性が写しとられていた。ラサールは再度、今回はほとんど細密画ミニアチュールに近いほど小さな作品を試してみた。彼は三ヶ月の大半をそのひとつの主題に取り組む事に費やし、目隠しをしたままでもあの小さな国王の肖像画を描く事が可能なまでに、全ての線と面を記憶するに至った。

 ある日、彼はそんな日常がたまらなく可笑しくなった。世界が激動し国境には外国軍が押し寄せ、テュイルリー庭園の向こうではギロチンが日々の刈り入れに勤しんでいるというのに、自分はといえば絵に描かれた顔や、彼の欠点についてくどくど不平を言う師匠について思い悩んでいるのだから。

 ド・バッツからの行動開始の連絡がようやく届いたのは、そのような時だった。


  1. [註1] ルイ十四世時代の財産家アントワーヌ・クローザの大邸宅。クローザの孫娘との結婚によりエティエンヌ=フランソワ・ド・ショワズール公爵の所有となった。 

  2. [註2] 1793年9月17日国民公会にて採択。「反革命的行動」という曖昧な罪状による恣意的な告発を可能にし、恐怖政治を加速させた。ダヴィッドは保安委員会の委員として300以上の政治犯の逮捕状に副署している。 

  3. [註3] スパルタの伝説的立法者。 

  4. [註4] 革命期のフランスで使用された紙幣。本来は公債券だが、正貨が不足していた為に通貨として流通された。革命期のハイパーインフレの原因のひとつ。アッシニア。ちなみに通貨単位が正式にフランに改められるのは1795年になってから。 

  5. [註5] 斬首刑後に死刑囚の頭を入れる為の柳籠の俗称。 

  6. [註6] ルイ・ダヴィッド作『Marie Antoinette conduite à l'échafaud 処刑台に向かうマリー・アントワネット』オリジナルはルーブル美術館所蔵。(作者のJacques Louis David は1825年没につき本画像はパブリックドメインである)Marie Antoinette on the Way to the Guillotine 

  7. [註7] アレクサンドル・クシャルスキ(1741年3月18日 1819年11月5日)
    ポーランドの肖像画家。マリー・アントワネット専属の画家となり、当時の王族の肖像を多数手がけている。代表作『Louis Charles, Dauphin de France』『Marie Antoinette au Temple』 

解説

史実のジャン=ピエール・ド・バッツ男爵(1754年1月26日 - 1822年1月10日)及び『スカラムーシュ』の続編Scaramouche; the Kingmakerに登場するバッツ男爵については 販売版の巻末で解説する予定。